参議院議員選挙が終わりました。
結果がどうだったかということより、低い投票率に、物語を紡ぐ者としては深い責任を感じずにはおれませんでした。
「わたしが投票しようがしまいが結果は変わらない」、多くの人がそう思ったのだとしたら、それはそんな物語を流布させてしまった、(おそらく)わたしたち世代の責任なのではないかと思うのです。
0と1は違う、1と2も違う、あなたがここにいることと、あなたがここにいないことは確実に違う、はずなのに・・・。
高度経済成長からバブルの時代に少年・青年時代を生きたわたしたちの世代は、戦中生まれ世代の「地道にこつこつ」生きる物語から脱け出し、「夢を描いて実現させる」物語を生きようとしてきました。
わたしたちの世代が無邪気に若者に語る「可能性は無限大」だの、「頑張れば夢は叶う」だのは、間違っているとは言いませんが、たくさんある人生の物語の、たった一つの物語に過ぎないはずです。そして、その物語だけに生きることは、ほんとうに危ういことなのではないかと思うのです。
夢や目標を持つということは、まず現在を、あるべき未来の姿と比して「わたしはまだまだだ」と設定するところからはじまります。もちろん成長なんて、数値化できるものではありませんし、人間的な成熟と年齢も比例するものではないと思うのですが、そんなことを言っていたら、「夢」の物語は生きられないので、ひとまずは、「わたしはまだ人として価値がない(あるいは少ない)」と設定をするのです。
そして、いま生きている自分を少し小さく見積もる、過小評価するという作法がこのとき生まれます。
持っているものを過小に評価し、持っていないものを獲得するための成長の物語。
けれど、描いた夢は、本人の努力とはまったく関係なく、災害や、事故、病気、家族の事情など、どうすることもできないものに見舞われ、諦めざるをえないこともあります。でも「頑張れば夢は叶う」の物語に生きていると、当然のことながら「夢が叶わなかったのはわたしの頑張りが足りなかったから」「自己責任だ」と、さらに自分を小さく見積もり、そのことを自分で責めることになります。
「現実」に効率よく適応し、常にアップデートしていく生き方は一見スマートに見えますが、ほんとうにそれが人間が生きる物語なのでしょうか。
わたしたちにはその「現実」を変える力はないのでしょうか。
0と1は違う。わたしたちは1ですらないのでしょうか。
そんなに自分を小さく見積もらなくてもいいのではないでしょうか。
わたしがここに生きている、あなたがここに生きている、それはそんなに小さなことではない、わたしはやはりそう信じたいのです。