みなさん、こんにちは。
今日は歌謡曲、というか流行歌の話しです。
わたしが少年から青年だった頃、歌謡曲が全盛で、中でも演歌は強い人気に支えられて、いくつもの曲が流行っていました。
少年だったわたしには、その良さがまったくわからず、なんでこんな暗い歌が流行るのだろうと思っていました。
わたしたちの世代が大人になるにつれ(つまりバブル時代になり)、演歌はだんだんと流行歌の座を追いやられていきました。
確かにわたしたちの世代が、演歌を世間の隅に追いやってしまったのかもしれません。
そしていま。
ふと気づくと、なんだか「応援ソング」なるものを耳にすることが多くなってきました。
「夢を持て」だの、「大丈夫」だの、「信じてる」だの、なんだか抽象的な励ましの言葉がその歌詞にはあふれています。
多くの場合、それは二人称の「君」や「あなた」や「おまえ」などを主語として、少し高みから相手に呼び掛けているように聞こえます。
あれ、昔の歌ってどうだったっけ?と、あらためて考えてみると、そういえば、昔の流行歌って、「わたし」や「おれ」など、一人称で、思いが叶わず、どんなにつらいか、どんなに悲しいか、など弱音を歌った歌が多かったように思います。
そうか、と、この齢になってやっと気づくのは、人生は、いくら頑張っても思いどおりにならないことがある、その時に、同じように嘆いている誰かの弱音が、「そうだよな」と、心を慰めてくれるのだということです。
どちらの歌がいいとかいうことが言いたいわけでは、もちろん、ありません。
ただ、そういえばこの頃は、「わたし」という当事者として思いを表明することより、少し高みから「君」や「みんな」に向けて意見することの方が、なんだかカッコイイことのようになっているのではないかと思うのです。
グラウンドにいて汗を流しているプレイヤーより、涼しい観客席にいて、あれこれコメントしている者のほうが、なんだかカッコイイということになっているのではないかと思うのです。
政治の場においても、自分が高みにいる(つまりカッコイイ)ことを示したいのか、相手の意見の表明を鼻で嗤うような、嘲笑の態度で、大臣席に座っている閣僚も見受けられます。
けれど、わたしたちはみな、「日本」という同じ船に乗っている乗組員です。甲板で日光浴だけしていれば、誰かが船の手入れをし、船を動かしてくれるわけではないのです。
甲板で日光浴をする人間がカッコイイ成功者として讃えられ、みな、その高みへ行きたがり、その結果、黙々と汗を流す者たちがいなくなったら船がどうなってしまうかは想像に難くないと思います。
「わたし」が「わたし」という、他に代わる者のいない当事者であることを表明できる機会、それが例えば、投票という行為ではないかと思うのです。
わたしのことを「わたし」と呼べるのは、世界にたったひとり、わたしだけなのですから。